集積場が巨大な牢獄なら、そこは独房だった。
鉄格子はない。だが、窓もなかった。本物の窓は。昼前の明るい空を映した、小さな映像(ニセモノ)の窓だけが、外の様子を少しでも伝えるものだった。
リフェールが押し開けた扉をくぐり、その小部屋に卵のケースを抱えて戻ったサフィリエルは、部屋の真ん中にある二人掛けのテーブルの上に、そっとケースをおろした。
「ねぇ、卵ってどうやって孵すの? あたためるの?」
リフェールは、テーブルの前の椅子に膝立ちで座り、両手を重ねた上に顎を乗せて、ケースの中の卵から目を離さないままサフィリエルに尋ねた。サフィリエルはケース下部のインジケーターを確認しながら、思案するように、少し首を傾げた。
「通常は特にあたためなくても常温で孵化するはずだが……このケースの中は冷たいままだ。冷凍状態でヒビが入ったということは、このままにしておかなければ孵らないのか、解凍した方が孵るのかわからないな」
「でも、じゃあ、どうするの?」
サフィリエルは「どうしようかな」と呟いて、答えを先延ばしにするかのように、唐突にリフェールに尋ねた。
「それはそうと、今日はどこか痛むところはないのか?」
「え? ああ、ううん。今日は平気。まだ寝てる内に抜け出してきたから。それにね……」
サフィリエルを振り仰いで、リフェールは少し笑った。
「最近は、あまり怪我しないように殴られるコツも覚えたから。避けるのは、余計怒らせるからしないけど」
だから大丈夫とリフェールは言ったが、そんなコツを掴むほど頻繁に殴られている事実に、サフィリエルは胸が締め付けられる想いだった。
この白い牢獄から出て、リフェールを虐待し続ける女天使からリフェールを守れたらいいのに。ただ傷つくだけの場所には戻らなくていいと、ここで一緒に暮らせたらどんなにかいいだろう。
だが、なぜかリフェールを素通りさせる外界への扉は、サフィリエルには相変わらず硬く閉ざされたままだった。それに、リフェールをこの場所に留めて、彼女までも罪人にする危険を冒したくはなかった。既に背中に翼のないリフェールは、それだけで罪人と言われても仕方がないのだから。
「リフェール……」
「平気よ、サフィリエル。そんなに心配しないで。あたしは平気。だって、あたしにはサフィリエルがいるもの」
そう言ってリフェールは笑った。サフィリエルは、リフェールが笑顔をつくる分だけ泣きたくなった。
「ねぇ、それよりサフィリエル、どうするの? このままにしておくの?」
「そう、だな。少し、様子を見てみようか」
「様子を見るの?」
今すぐに開けて取りださないことに、リフェールは少し不満そうだった。
「このままの状態でないと孵らないという可能性が残っている以上、不用意に温度を上げない方がいいのかもしれない。確かなことはわからないが」
リフェールはちょっと考え込み、わかったと頷いた。
「そっか。うん、そうよね。でも、少しってどのくらい?」
「最低でも一日、長くて一週間くらいか」
「一週間は長いなぁ。あたし、早くこの子に会いたいよ」
透明なケースを指で軽くつつきながらリフェールが言った。サフィリエルは静かに微笑んで頷いた。
「そうだな、私もだ」
それから三時間ほど、テーブルの上の卵を眺めたり、仕事を再開したサフィリエルの周りを踊るように歩きながら色んなことをお喋りして過ごしたリフェールは、
「また明日ね」
と言って、集積場を後にした。
集積場から外に出ると、前方に夜があった。
集積場は都市の外れにあるため、その入口から伸びる黒い舗装路の両脇は白い雲の平原が広がり、比較的明るい場所だった。
だが、舗装路の伸び行く先には黒い都市があり、黒一色で染められたその一帯は、淀んだ夜のようだった。
リフェールは夜への道を歩きながら、一度だけ集積場の方を振り返った。その顔は、サフィリエルといた時と違って、疲れきって悲しそうで、ひどく大人びて見えた。
罪悪感にも似た表情を浮かべながら、リフェールが足取りも重く向かっているのは、苦痛に満ちた自分の家ではなかった。
都市の中心に位置する巨大な大聖堂。
大小合わせて十二の塔を持つ黒い大聖堂の中には、天上の都市を統べる評議会の評議長と評議員が住んでいた。それはつまり、高位天使の殆どがそこに集結しているということだ。
夜のような黒い都市の真ん中に聳える大聖堂は、闇と腐敗に飾られて、月のない夜の森よりも昏かった。
リフェールはその大聖堂を目指し、羽虫の大群のように空を舞う黒い天使達の下、誰も歩かないつややかな舗装路を歩いていった。
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