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そしてその日から、サフィリエルはリフェールを抱えて飛んだ。
集積場の空の下は、いつも白い卵で埋め尽くされて、他にはなにもなかったが、それでもリフェールは、嬉しそうだった。リフェールが嬉しそうに、
「空を飛ぶのって気持ちいいね」
と笑うから、サフィリエルも喜びでいっぱいになった。
サフィリエルがここに閉じ込められて以来、一度も変化のなかった卵の一つに、ヒビが入っているとリフェールに教えられ、その場所へと向かいながら、サフィリエルはいつものように、胸の中の熱に幸せを噛み締めていた。
「サフィリエル、ホラ、そこよ」
サフィリエルに抱えられたまま、リフェールが細い手を伸ばして指差す。サフィリエルは羽ばたきを緩め、ゆっくりと細い通路に降り立った。
リフェールを抱きしめていた腕を離すと、リフェールは少しサフィリエルを振り向いて、
「こっちよ」
とサフィリエルを手招き、先に立って飛ぶように歩いていった。サフィリエルは翼を折り畳み、リフェールの後を追った。
そしてリフェールが立ち止まり、その小さな指が指し示す、一つのケースに視線を落とした。
にぶい光を放つ白い卵は、両手の大きさよりも少しだけ大きかった。
透明なケースの中は零下に保たれていたが、ケースの表面には電流が通り、霜に曇って、中の卵を隠してしまわないようになっている。
卵には、小さなヒビが入っていた。
先端に、わずかなヒビが入っていた。
それは、目を凝らしてよく見なければわからないほどの小さな疵だった。
「ね?」
ケースの前にしゃがみこみ、リフェールは少し得意そうにサフィリエルを仰ぎ見た。
「確かに……どういうことだろうな」
リフェールの頭の上からケースを覗き込んだまま、サフィリエルは眉根を寄せた。
「壊れたわけじゃないよね? 作動ランプ、ついてるものね?」
サフィリエルの顔色を窺うように尋ねるリフェールに、サフィリエルは独り言のように呟いた。
「もしかしたら、作動ランプ自体が故障したのかもしれない」
「ホント? でも、そんなことあるの? そんなんじゃ、いっつも心配でしょうがないよね」
「ないことはないと思う」
そう言いながら、サフィリエルはヒビの入ったケースとその隣にある正常なケースを見比べた。見た感じでは、ケース自体に違いは見当たらなかった。
「でも、じゃあ、どうするの?」
「そうだな……この異常を報告して、指示を仰ぐべきなんだろうな」
あの、刃物のように鋭い目をした天使。あの天使と会うのは、まだ怖かった。いや、以前よりもっと恐ろしかった。吐きだされる毒の全てを、なんの感慨もなく受け流していただけの頃とは、自分は既に違ってしまっている。今は、リフェールがいるから。
あの天使の毒で傷つくのが怖いというよりも、今までとの違いに気づかれ、リフェールの存在を知られてしまうのが怖かった。それで外界との扉を硬く閉ざされ、二度とリフェールに会えなくなるのが怖かった。
躊躇うサフィリエルに、リフェールが言った。
「ねぇ、少しの間、内緒にしちゃダメかな」
「少しの間内緒に?」
リフェールは、白いケースの中の卵に視線を落とし、小さな声で聞き返した。
「もし、この卵がこのまま孵りそうだってわかったら、どうなるの?」
「それは……おそらく、焼却処分される可能性が一番高いと思う」
サフィリエルが言いにくそうに答える。その答えを聞いて、リフェールはサフィリエルを振り仰ぎ、ひどく真剣な目をした。
「でも、この卵は孵りたがってるんでしょ? 本当だったら、凍って眠ったままのはずなのに、それでもこんなに一生懸命生まれたがってる。生まれたいって願ってるのに、殺してしまうの? 生まれちゃいけないの?」
生まれちゃいけない。それは、リフェールを産んだ女天使が、繰り返し言い続けた言葉だ。今日もいつもと同じように、リフェールは、体のどこかに傷を作りながら、
「あんたさえ生まれてこなければ」
と罵倒され、心にも傷をつくってきたのだろう。
「あたしは、生まれちゃいけなかったんだって思った時、すごく悲しかった。でも、サフィリエルがあたしが生まれたことを認めてくれたから、本当に救われたの。だからあたし、この卵が孵ることを望みたいの。生まれたいって言ってるこの卵の中の天使に、生まれてきていいよって言ってあげたいの。生まれちゃいけないなんて、そんなの……やだよ」
「リフェール……」
泣きだしそうな顔で訴えるリフェールに、サフィリエルは言葉を失った。
「サフィリエル、一生のお願い」
両手を組み合わせて、上目遣いにサフィリエルの瞳を覗き込む。
「一生のお願いなんて、そう簡単にするものじゃない。気が遠くなるほど長いんだから」
そっけない口調でそう言ったものの、「でも」と言いかけたリフェールを遮って言った言葉は、結局。
「お願い、ってそれだけでいい」
「え。じゃあサフィリエル?」
サフィリエルは口元だけで微笑み、静かに頷いた。
(確かに、この卵は孵りたがっているのかもしれない。もしもそれが罪ならば、私がその罪を全て背負えばいいだけのこと。生まれること自体が罪なのだと、リフェールが傷つくのを見るくらいなら、この罪の代価に私の命ぐらいで済むなら安いものだ)
「いずれにしろ、この卵を調べるためにケースから出すことになる。手遅れだったと言えばいい」
そう言って、サフィリエルはケースの側面にあるプラグを引き抜き、床下に隠された電力供給のためのチューブからの接続を切った。作動ランプが瞬き、補助電源に切り替わったことを、一定の明滅で知らせた。
そして両手でケースを抱えあげたサフィリエルに、リフェールはパッと顔を輝かせた。
「サフィリエル!」
飛びあがって手を打ち合わせ、リフェールは、サフィリエルに勢いよく抱きついた。
「サフィリエル、ありがとう!」
「リフェール、あぶない。卵が落ちる」
半ばぶらさがるように抱きつかれて、あやうくよろけそうになるのを堪え、サフィリエルは腕の中のケースを抱え直した。それと同時に、つい微笑んでしまいそうな口元をひきしめる。
「ありがとうサフィリエル! ありがとう! だから好きよ」
「わかったから、そうぶらさがるな。卵を落として、壊したくはないだろう?」
「うんっ」
リフェールは元気よく頷き、一輪の可憐な花が咲き開くように笑った。
「でも、ありがとう! 大好きよ。あたし、嬉しい」
スカートを翻して、踊るようにサフィリエルの周りを回って笑うリフェールに、サフィリエルは少し照れたように微笑んだ。
「わかったから」
こんなのはもう、どうしようもない。リフェールの笑顔のためなら、いくつもの罪を重ねることさえ厭わない。
喜びは罪か。
罪は至福か。
ただ、彼女の笑顔を見ていたいだけだ。
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