次の日、リフェールは訪ねてこなかった。
サフィリエルは、不安に押し潰されそうだった。
もう二度とリフェールに会えないのだろうかと思うと、絶望に足が竦んだ。もしかしたら今にも現れるんじゃないかと思うと、落ち着いて作業もできない。数え切れないくらい何度も、外への扉に目をやっては、その度に失望で心が沈んだ。こんなにも長く感じた一日は、今までになかった。
眠れない長い夜が明け、いつものように卵を数える作業に戻るために、彼が生活する小部屋から、果てしない卵海への扉を開けたサフィリエルは、夢うつつに見た幻に立ち竦んだ。
黒いワンピースを着た小さな天使。
「……リフェール?」
切望のあまり幻を見ているのだろうか。サフィリエルは瞬きを忘れて、呆然とその名を呼んだ。
「おはよう、サフィリエル」
強張った泣き笑いの顔で言われ、サフィリエルはようやく、それが幻ではないことに気づいた。だが、まだあまりリアリティがない。
「おはよう」
挨拶を交わしたものの、その先なにを言ったらいいのかわからない。なにか一つでも間違ったなら、リフェールはまた駆け去って、今度は本当に二度と現れないかもしれない。
サフィリエルは言葉を無くし、ただリフェールを見つめた。
リフェールは途方に暮れたようにサフィリエルを見上げ、それから、意を決したように口を開いた。
「サフィリエル、こないだは、ごめんね」
「……いや。私の方こそ、出過ぎた真似をしてすまなかった」
「ううん。サフィリエルは心配してくれたんだもの。あたしが、いけないの」
「リフェールはなにも悪くない。私が……」
「違うのっ」
リフェールが突然声を張り上げ、激しくかぶりを振った。サフィリエルは、またなにか失敗してしまったのかと息を呑んだ。
リフェールは、声を上げたのと同じように、ふいに声を落とし、俯いて囁くように続けた。
「違うの。サフィリエルは悪くないのよ。あたしが……怖かったから」
「怖かった?」
意外な言葉に、サフィリエルは思わず問い返した。リフェールは顔を上げ、少し唐突に言った。
「この前の怪我、やっぱり手当て、してくれる?」
「あ、ああ、もちろん」
サフィリエルは戸惑いながらも頷き、今出てきたばかりの部屋の中にリフェールを招き入れた。リフェールは「ありがと」と小さく言って、なにかを決意したような表情で、サフィリエルの後に続いた。
白木のテーブルの上には、リフェールが初めて訪れて以来、救急キットの箱が置きっぱなしになっていた。テーブルの横には、背もたれのない丸椅子が二つ並んでいて、サフィリエルがなにか言う前に、リフェールは黙ってその椅子の一つに腰を掛けると、両手を背中に回して、ワンピースのファスナーを引き下ろした。
サフィリエルは救急キットの蓋を開け、リフェールの白い小さな背中を見た。
ワンピースの下には、なにも身につけていなかった。背骨の真ん中辺りに、まだ生々しい傷があった。錆びた金属片ででも斬りつけられたのか、ギザギザの傷口は、薄紅の血が滲み、じくじくと黄色く膿んでいる。その傷の酷さに、サフィリエルは痛々しげに眉をひそめた。
そして、急いで手当てをしてやりながら、サフィリエルは気づいた。
化膿した傷以外にも、リフェールの背中が以前にひどく傷つけられていることを。
皮が引き攣れたように盛り上がった楕円形の傷口が四つ。少なくともその内の二つは、天使ならば羽がある場所で、残りの二つも二対の羽を持つ天使ならば、そこから羽が生えてくる場所だった。
(まさか……羽を!?)
天上の国にあって、天使が羽を失うということは死にも近しい。死罪よりも重い罪でも犯さなければ、その羽を切り落とされることはないはずだ。それに、もしも罪によって切り落とされたのなら、切り口はもっと平らで滑らかなはず。だがリフェールの傷跡は、キレイに切り落とされたそれではない。まるで、ムリヤリ誰かに引き抜かれたかのようだ。
そこまで考えて、サフィリエルはゾッとして青ざめた。
リフェールの小さな傷ついた背中を見つめたまま、思わず手を止めたサフィリエルに、リフェールが囁くように言った。
「サフィリエル、わかるでしょう?」
「え?」
「あたし、羽がないの。それを見られるのが怖くて、逃げだしたのよ」
サフィリエルは、傷の手当てを再開しながら、羽のない天使に対する通常の扱いを考えれば、それも無理はないと思った。だが、自分が他の天使達と同じように反応すると思われていたのなら、それは少しショックだった。
「あたしね、あたしを産んだ天使に羽根を毟られたの。あたしが生まれたから、相手の天使に捨てられたんだって。あたしが……いけないんだって」
リフェールは淡々とした口調で、なんてことのないように話そうとした。だが、言葉の終わりは、耐えかねたように少し震えていた。サフィリエルは、胸の痛みに気が遠くなりそうだった。
「リフェール……」
名前を呼ぶ以外、なにを言えばいいのかわからない。サフィリエルは真ん中の傷をガーゼで覆い、テープで止めた。
リフェールは両手を膝の上で握り締め、サフィリエルに背を向けたまま、少し笑った。
泣いているような笑い声だった。
「そんなこと言われたって困るよね。だって、わからなかったもの。自分が生まれてきちゃいけなかったなんて」
「リフェール!」
咄嗟に声をあげたサフィリエルを無視して、リフェールは更に続けた。
「でも、生まれてきちゃったんだもの。生まれちゃいけなくても、あたし、やっぱり……せめて、空を飛んでみたかったな。まだ、飛んだこと一度もなかったんだ。もうすぐ飛べるかもってとこだったんだけどな」
残念、と、冗談めかして言うリフェールが、勿論冗談なんかで言っているわけではないことはよくわかった。
サフィリエルは、背中のファスナーを引き上げてやりながら、静かな決意を込めて言った。
「それなら、リフェール。私がお前の羽になるよ」
「えっ?」
ビックリして振り返りかけたリフェールを、背中からそっと抱き締めて、サフィリエルは繰り返した。
「私がお前の羽になる。お前が飛びたいと願うなら、私がいつでも連れていく。私の空は限られているけれど、この閉ざされた空の下でなら、いつでも一緒に飛んでいく」
「サフィリエル……」
リフェールは言葉を無くし、静かに涙を流しながら、何度も何度も頷いた。
「生まれてきちゃいけなかったなどと、そんなことは言わないでくれ。私がお前に会えて、お前が生まれてきてくれて、どれだけ感謝しているか。せめて私のためだけででも、生まれたことを否定しないでくれ」
いつもはあまり喋らないサフィリエルの、驚くほどの饒舌ぶりに、一人でもあれこれよく喋るリフェールは、反対になにも言えなくなったようだった。
それから、サフィリエルは最後にもう一度、
「私がお前の羽になるから」
と誓い、リフェールは掠れた声で囁いた。
「ありがとう」
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