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「また来てもいい?」
そう言ってリフェールが去ってから、サフィリエルは一旦作業を中断した場所まで飛び戻り、再び無数の卵を数える仕事を再開しながら、
(本当にまた来てくれるのだろうか)
と思った。
体中に傷を負った小さな天使。サフィリエルが黙って手当てをするのを、隠しきれない驚きの表情で不思議そうに眺めていた。その様子が、今まで誰かに優しくされたことなど一度もなかったかのようで、サフィリエルの胸は痛んだ。
サフィリエル本人も、気がついたらこの集積場で働くだけで、誰かに優しくされた記憶もなかったが、自分のことなどどうでもよかった。ただ、彼女にこれ以上傷ついてほしくないと思った。そのために自分ができることがあるのなら、どんなことだってしようと思った。こんな白い牢獄に閉じ込められた身で、なにができるかわからないけれど。
(初めて会ったばかりだっていうのにな)
それなのに、こんなにも強く守ってやりたいと思うなんて、どうかしている。
だが、
(なぜか以前にも会ったことがあるような)
気がしたのだ。その既視感は、胸が苦しくなるほどだった。
それは、あの一瞬の幻が見せた翠緑の瞳を思い出すほどに、強く感じた。
会いたかったよ、と、何度も声にだしそうになっては、無理に押し止めた。初めて会ったのは確実なのに、そんなことを言いだしたら頭のおかしなヤツだと思われてしまうだろう。
(本当にまた来てくれるのだろうか)
サフィリエルはもう一度思った。
また来てほしい。
だが、本来は部外者立ち入り禁止の場所のはず。今回はなんらかの理由で偶々入って来られたが、次からは締め出されてしまうという可能性もある。
それでも、祈りを忘れたこの世界でも、そう願うことだけは許されているのなら。
心から、願う。
(彼女にもう一度会えることを。彼女を、彼女を傷つける全てのものから守れることを)
リフェールは、右手で胸元を押さえながら、集積場から伸びる一本の黒い道を歩いていた。
まだ少し、信じられなかった。
(あんな天使がいるなんて)
手当てしてもらった右の頬に触れる。他にも幾つか手当てをしてもらったが、全部目に付くところだけ。いつも痛い背中の傷跡は見せられなかった。自分が羽のない不具者だと知られてしまう。
でも不思議とサフィリエルが飛ぶのを見ても、背中は痛まなかった。こんなことは初めてだ。サフィリエルの、天使にしては細長く灰色がかった翼は、外に出れば侮蔑の対象になるのだろう。
(でも、羽は羽だわ。どんな形、どんな色をしてたって、翼があれば空を飛べるもの。あたしは、もう一生、空を飛ぶことはできない。あの空を、飛んでみたかったな。地上に降りた天使は、翼を捨て去るって聞いた。地上でなら、私も普通に暮らせるのかもしれない。でも、地上に降りるための翼がないんだもの。意味がないよね)
その時、目の前を黒い影がよぎった。
「!」
ハッとして立ち竦んだリフェールは、夜よりも昏い漆黒を見た。
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それからリフェールは、毎日ようにサフィリエルのもとを訪れた。
やって来る度、どこかに新しい傷をつくっているリフェールの手当てをしてやりながら、サフィリエルはその原因については触れようとしなかった。
言いたくないことかもしれない。追求して、それを嫌ったリフェールがもう二度とここに来てくれなくなったらと思うと、怖くて聞けなかった。
傷ついたリフェールを見続けるのは辛いが、この場所に閉じ込められた身では、リフェールが自分から来てくれなくなったら手の打ちようもない。できることなら、リフェールが自ら話してくれるのを待ちたかった。そうでなくてもあと少し。二人が出会ってまだわずか。心の深い部分に無遠慮に踏み入るのには、早すぎる。
(そう思うのは、単に臆病なだけだろうか)
だが、その日もやって来たリフェールは、苦痛の陰を宿しながらも、サフィリエルに痛みの場所を告げることを拒んだ。
「大丈夫、怪我なんてしてないから。今までのがちょっと痛むだけ。心配しないで」
そう言い張るリフェールに、サフィリエルは困ったように眉根を寄せた。
「じゃあ、その痛いところを手当てし直そうか?」
「平気よ! ねぇ、それより今日はどの辺でお仕事してたの? 遠く?」
明るく言いながら、卵海の彼方に目を凝らす。それに答えようとしたサフィリエルは、リフェールの背中にふと目をやり、ギクリとして凍りついた。
リフェールは、天上の他の天使達と同じように、今日も黒い服を身につけていたが、小さな背中の真ん中に、黒よりも黒い闇が染み出していた。濡れているのだ。サフィリエルは、それが血だと直感した。
「リフェール……! その背中は」
リフェールは、パッとサフィリエルから背中を隠すように身を翻した。
「なんでもないっ」
「だが、血がでている。怪我をしてるんだろう?」
「してないっ これは、ちょっと、汚したの。汚したのよ、それだけ」
「リフェール……」
サフィリエルは途方にくれたように呟いた。彼女にこうまで頑なに拒まれたのは初めてだ。無意識の内に傷ついた表情をしてしまったのだろう。リフェールはサフィリエルを見上げ、泣きだしそうな顔をした。
「あたし……違うの、あたし……」
なにか言いたげに呟いたリフェールは、俯き、
「ごめんなさい。今日はもう帰るね」
口早に言って、サフィリエルがなにか言うよりも先に、外へと通じる扉を開けて駆けだしていった。
サフィリエルは立ち尽くし、閉ざされた扉をただ見つめた。
あの扉と一緒に、リフェールの心も閉ざされてしまったような気がして、サフィリエルは立ち尽くすことしかできなかった。
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