集積場の中は、全て白一色に染め上げられていた。
天使達すらどうやって建てられたのか知らない漆黒の都市は、外はもちろん、内側も出来得る限り黒く塗り潰されている。そんな中で、この集積場の内部はかなり異質だった。命の宿った無数の卵も、その卵の白さも、殆どの天使は忌み嫌っている。彼らがこの中を覗き見たら、きっと嫌悪に顔をしかめるだろう。
だが、サフィリエルにとってはこれが当たり前の世界だ。当たり前だと思っていた。
(それなのに、この違和感はなぜだろう)
そんなことを思いながら、白い世界を滑翔していた時、目指す先に、小さな黒い染みを見つけた。
この集積場の中に、自分以外の黒い色が入り込むのは、刃物のように鋭い目つきの、三対の翼を持った黒い天使が様子を見に訪れる時だけだ。それすらも滅多にない。滅多にないことだが、他に考えられなかった。
サフィリエルは、我知らず羽ばたきを緩めた。ここで卵を数え続ける自分に疑問を持ってから、その天使が訪れるのは初めてのことだ。今までのように、暗い悪意の棘を持つその天使の言葉を、ただ無表情に聞き流せるか自信がなかった。なにか反応してしまったら、その棘が鋭さを増すような予感があった。
できることなら、会いたくはなかった。少なくとも、今はまだ。もう少ししたら、変わることのない繰り返しの日々に、以前のような無表情と無感動を取り戻すだろう。そうなるまでは会いたくない。
とはいえ、今更引き返して逃げ出すことはできない。もしそんなことをしたら、その天使は上位天使の証である三対の翼を駆って、たやすく追いつき、光の矢で自分を射ち落とすだろう。躊躇いもなく。いや、寧ろ少し楽しみさえして。
だからサフィリエルは、ほんのわずかにスピードを緩めたまま、眼下の黒い小さな染みを目指して飛んだ。
それにしても、あの黒い天使にしては、シルエットが小さすぎるような気がする。誇らしげに見せつける、あの三対の翼すら見えないような気がした。
(あれは……違う。あれは……子供?)
サフィリエルは、自分の見ているものが信じられなかった。
それは確かに子供だった。黒いワンピースを着ていたから、少女体の天使なのだろう。
子供の天使自体、恐ろしく数が少ないはずだった。その証拠が、自分が数え続けるだけで孵されることのない卵達なのだから。
だが、サフィリエルが本当に我が目を疑ったのは、それが珍しい子供の天使だったからというわけではなく、あの三対の羽を持った天使ではなかったからでもなく、自分を見上げる少女の瞳が、有り得ない輝きを宿していたからだった。
それは、砕けそうにきらめく翠緑の瞳。天使には決してない瞳の色。
(まさか、天使ではないのか?)
天上の国で無数に蠢くのは黒い天使。それ以外の存在など、あるはずがない。
天使にはないはずと言っても、自分の青みがかった灰色の瞳もまた、天使にはあるまじき色だった。結局、自分は異端なのだ。そしてもしかしたら、あの少女も?
サフィリエルは一度だけ、ぎゅっと強く目を瞑った。そして再び開けた時、少女の形をした天使の瞳は、どこにでもある黒い色に変わっていた。
やはり見間違いだったのだろう。そう思いはしたものの、一瞬の幻が見せた瞳の色は、サフィリエルの胸に刺さって、強い印象を残した。
サフィリエルは、ゆっくりと羽ばたきを緩め、その小さな天使の前に降り立った。言葉もなく、外へと通じる扉の前に立つ羽のない少女を見つめる。
彼女の瞳は、サフィリエルと、その背後の無数の卵達をさ迷い、やがて囁くようにサフィリエルに尋ねた。
「ここは……なんなの?」
サフィリエルは一瞬、答えるべきかどうか迷ったが、結局、静かな調子で彼女に答えた。
「ここは、卵の集積場。一般の者は立ち入り禁止になっているはずだが、どうやってここに?」
「そう、なの? だって、開いてたから……」
「開いていた?」
サフィリエルは首を傾げた。 この集積場へ通じる通路には、セキュリティのセンサーが備え付けられているはずだった。関係のない者が先に進もうとすれば、警告して、それでも進めば強制排除されるはず。少なくとも、そう聞かされていた。だが、この小さな子供の天使が、嘘をついているようにも見えない。
サフィリエルは戸惑いながら少女を見つめ、ふと、少女の腫れあがった右頬や、長袖のワンピースから覗く細い手足にある、無数の傷跡に気づいた。白い脛にある、なにかで切られたような傷からは、薄紅の血が滲みだしている。
サフィリエルは思わず声にだしていた。
「怪我を、しているのか?」
「え?」
その小さな天使は、ビックリしたように目を見開き、サフィリエルの目線が自分の頬と右足に注がれているのに気づくと、ちょっと足を見下ろした。そして、塞がったと思っていた傷口からまた血が滲んでいるのを見ると、どうということもないと微笑った。
「平気。こんなの、いつもだもの」
その痛々しい微笑みに、サフィリエルは息が詰まりそうだった。この小さな天使が苦しむのは見たくない。傷つくのは嫌だと、今初めて出会ったばかりだというのに、何故か強くそう思った。
「手当てをしよう。おいで」
そう言ってサフィリエルは、彼女が立つ扉の隣にある、もう一つの扉へと歩きだした。
振り返り、驚愕と戸惑いに立ち竦む少女に、もう一度声をかけて促す。
「おいで。大丈夫だ」
「え、あ、うん」
少女はハッとしたように目を見張り、慌てて頷くと、タタタっと小走りにサフィリエルに駆け寄った。サフィリエルは安心させるようにわずかに頷き、どこか違和感を覚えながらも少女に名乗った。
「私は、サフィリエル」
「あたしは……」
少女は一瞬考え込むような顔をして、それから、サフィリエルと同じように、少し言いにくそうに応えた。
「リフェール」
本当に名乗りたいのは、そんな名前じゃないけれど。と、お互いが感じていたことは、わからなかった。
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