進化の卵  
1章「卵海(らんかい)の天使」
 
 
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1-03


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 背中が痛い。
 白い卵の海で、彼女がヒビの入った卵を見つけることになる、数か月前。
 リフェールは今日も、彼女を産んだ女天使と暮らす、痛みに満ちた家をでて、あてどもなく、黒い都市を彷徨い歩いていた。
 細長い楕円の四つの傷跡は、もうすっかり塞がっていたけれど、憎悪に満ちた言葉をぶつけられる度、容赦ない暴力を受ける度、空を舞う黒い翼の天使達を見かける度、もう治ったはずの傷口がズキズキと傷んだ。右の頬は、今朝殴られたばかりでまだ赤く腫れていたし、癒えていない傷はそれこそ無数にあったけれど、なによりも背中の傷跡の痛みが一番辛かった。たぶん、傷跡と一緒に、心もまた血を流して痛むからだろう。
 家にいれば、自分を産んだ女天使が怒りと憎しみをとめどもなく撒き散らし、心と身体に新しい傷が増えるだけだし、外に出れば、翼のない自分は嘲りと侮蔑の対象で、黒い都市に溢れかえった天使達が白っぽい天空を飛び交う姿を嫌でも目にしてしまう。
 背中の傷跡は、いつも痛かった。
 それでも、どちらがマシかといえば、まだ外にいた方がいい。家にいたら、いつか本当に殺されてしまう気がする。
(それとも、もう、一度くらいは死んでるのかもね)
 自嘲だけでなく、そう思った。
 背中の羽を引き毟られた日より前のことは、あまり憶えていない。記憶はあるのだが、それはまるで、自分じゃない誰かの物語のようだった。だから本当は、自分はあの時死んでいて……
(じゃあ、今のあたしはなに? 幽霊? そんなものがあるとしたって、だったらこんなにあちこち痛くないよね。どうして? なにがいけなかったの? あたしがいけないの? あたしが悪い子だったから? あたし、悪い子だったの? 全部、あたしがいけなかったの? あたしなんて、生まれない方がよかったの? あたし、生まれちゃいけなかったの?)
 そんなことを考えていたら、いつの間にか都市の外れまで来ていた。
 こんな遠くまで来たのは、これが初めてだ。ここまで外れまで来ると、溢れて零れ落ちそうに多い天使達の姿さえ見かけない。歩いてきた先の空に、チラチラと羽虫のように舞うのが見えるだけだ。
 雲の上の黒い舗装路は、巨大な闇のような建物の前で行き止まりになっている。
 行き止まりは、その巨大な建物の扉へと続く階段に繋がっていた。両開きの黒々とした扉にはなんの装飾も施されていない。扉以外、外から見える範囲に窓が一つもないのが、不思議だった。
 それは、今まで見たどんな建物より大きかった。
(大きい……なんの建物だろう、ここ)
 見上げていると首の後ろが痛くなってくる。視線を下に戻し、最初の段にそっと足をかけた。
(あたし、なにしてるの?)
 そこがなんの建物なのかもわからないのに、扉が開かれているわけでもないのに、誰に招かれたわけでもないのに、黙って入ろうというのだろうか。
 自分で自分の行動に首を傾げながらも、次の段に足をかける。ゆっくりと、昇っていく。黒い階段は、天上の都市にあるどの建物とも同じように傷一つなく、なめらかで、光を吸い込むように黒かった。
(でも、きっと、開いてないわ)
 誰もいないこんな都市の外れ。きっと随分前になんらかの理由で放棄されたものに違いない。
 そう思いながらも、なんとなく、予感めいたものがある。胸の奥、疼くような予感。
 金属質でほのかにあたたかい扉に指先で触れ、少し、押してみた。かすかに内側にずれた感触が伝わり、今度は手の平全体で押した。
 力を込めた分だけ、ゆっくりと扉が開く。
 胸の奥に点った、小さな炎のような予感。
 心臓が鼓動を早めるのは、不安だろうか、期待だろうか。
 扉が、開く。


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 無数の卵を数え続ける仕事に、以前は必要としなかった休息の時間をとることにしたのは、つい最近のことだ。
 繰り返される同じ日々、同じ時間に、うんざりすると、気が狂ってしまいそうだと、そう感じるようになったのは、本当にここ最近のことだ。何日前かと尋ねられれば、わからないと答えることしかできないのは、ごくわずかな変化すらない日々が、全ての思考と感覚を溶かしていくから。
 そんな中で、それを不満に感じる気持ちが生じたのは幸運、だったのだろうか。今まで通り、なんの疑問も持たずにいれば、ただ数え続けることを苦痛と感じることもなかっただろう。
 嫌になったからと、投げだして、逃げだすわけにもいかないのなら、なにも考えず、なにも感じず、ただの機械であった方がよかったのかもしれない。
(こんな時間を繰り返していたら、いずれまたそうなるだろうが)
 それを嘆けばいいのか、喜べばいいのかさえわからない。
 とにかく、もうそろそろ休憩を入れようと判断し、クリップボードを手にしたまま、ブルリと身をふるわせた。
 背中の羽は、天使のものにしては色が薄く、少し細長いものだったが、それを指差し嘲笑うものはここにはいない。ここには誰もいない。
 誰憚ることなく飛べるのは、誰もいないこの場所に閉じ込められた唯一の利点かもしれない。
 かといって、今までは殆ど飛ぼうともしていなかった。一番遠い場所から戻ってくるのさえ、黙々と歩いて戻っていた。そういえば、飛んでみようと思ったのも、ここ最近のことかもしれない。少しでも早く、自分だけの場所に戻りたいと、そう思うことも、今まではなかったことだ。
 灰色の翼で舞い上がり、白い卵の海の上を滑るように飛んでいく。
 集積場全体の大きさから比べたら、小さな点のような小部屋を目指し、翼を羽ばたかせた。どんなに小さくても、そこが唯一、卵を目にすることなくゆっくりと休める場所だった。




   
         
 
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