進化の卵  
1章「卵海(らんかい)の天使」
 
 
    HOME / 「進化の卵」TOP



1-02


 ******************************************************


「……エ………ル」
 ふいに、遠く、声が聞こえた。澄んだ、少女の声だ。
 クリップボードを片手に、彼は顔をあげた。数え続けるうちに、霞むように光を失いつつあった青灰色の瞳が、聞き覚えのあるその声に光を取り戻す。
「サ……リ…エル!」
 反響する声は、どこから聞こえてくるのかわからない。視界の内にはいないようだが。
「サフィリエル!」
 サフィリエルは後ろを振り返った。
 振り向けば、 卵の列を身軽に飛び越えて、走ってくる黒髪の少女。
 艶やかな黒い髪が扇のように広がり、黒いワンピースのフレアスカートは、翻って可憐な蝶を思わせる。
「サフィリエル!」
 少女は、細い腕を折れそうなほど懸命に振っていた。
「……リフェール」
 サフィリエルは呟くように少女の名前を呼び、駆け寄ってくるのを待った。戸惑いが、ブルーグレイの瞳でゆれている。
 彼女を知ってはいたけれど、その姿を見るのは、声を聞くのは、何日、何週間、何ヶ月、何年ぶりだろう。それとも、ほんの一瞬前に会ったばかりだろうか。卵に埋め尽くされた世界では、時間の感覚を正常に保つのがひどく難しい。
 サフィリエルは困惑に首を傾げ、自分の目の前まで駆けてきて、頬を少し上気させ、肩で息をしている少女を見下ろした。
 リフェールは、一度大きく息を吸い込み、言葉と一緒に吐きだした。
「サフィリエル、卵が……」
「卵?」
「卵が変なの!」
「変? 誰の卵が?」
「誰のって、ここのよ?」
「え?」
 卵がなにかも一瞬わからなかったが、それ以上に、異変があるのがここの卵だとは思いもよらなかった。気が遠くなるほどの時間、ただ数え、いつも異常ナシと記すだけだったこの集積場の卵に、なんらかの変化があったのは、これが初めてのことだ。それとも、憶えていないだけなのだろうか。
「ここの、卵が?」
「だからそうだってば。ね、しっかりしてよ、サフィリエル。この集積場の卵がおかしいのよ? 凍ってるのに、ヒビが入ってるんだから」
 もどかしそうなリフェールの言葉に、サフィリエルはようやく、どうして彼女があんなに慌てて興奮していたのかを理解した。
  少しずつ、その現実が染み込んで、サフィリエルは、リフェールがいない時はいつもぼんやりとしている頭の名残りを振り払うように、かるく頭を振った。
「本当に?」
「ホントだってば! 見て確かめてよ。そしたらわかるから」
「そうか……そうだな。どこだ?」
「あっち」
 リフェールが振り向いて、彼方を指差す。
「遠いのか?」
「端っこの方だもの」
「そうか。なら、飛んでいこう」
 走っていくより、その方がずっと早い。リフェールが言うことが本当なら、少しでも早く確かめた方がいいだろう。
 サフィリエルがそう言うと、リフェールの瞳が嬉しそうにきらめいた。翼をもがれて飛べなくなった彼女は、サフィリエルに抱えてもらって飛ぶのを、なによりも楽しみにしていた。
 サフィリエルの白いマントに隠れた背中が、生き物のように蠢く。さっきまではドレープに隠れていたマントの二本のスリットから、ズズズ、と、暗灰色の塊が姿を現わした。やがてそれは、しなやかに伸びる、一対の翼となる。
 サフィリエルは、一度、二度、翼の調子を確かめるように羽ばたかせた。閉じていた時には想像もつかないほどに高く拡がる翼に、灰色の光の粒子が辺りを染める。
 そしてサフィリエルは、最近まで殆どだすことのなかった翼の調子に満足すると、リフェールに向かって両手を広げた。
「おいで。案内してくれ」
「うん」
 頷き、リフェールはくるりと背を向けた。
 そうやって背中を向けるのは、言葉とは裏腹の拒絶ではなく、一番飛びやすい姿勢をとるためだ。サフィリエルは、目の前の無防備な背中を、そっと抱きしめる。壊れそうに華奢なリフェールの身体は、腕の中にすっぽりと収まった。リフェールから伝わる淡い熱が、胸の奥まで伝わる気がした。
 ふわ、と背中の翼を閉じる。
 そしてゆっくりと拡げ、軽く床を蹴りながら、素早く閉じる。

 ヒュウッ……

 リフェールを胸に抱いたまま、サフィリエルは高く舞い上がった。
「あっちよ」
 リフェールの指差す方へ、サフィリエルは翼を駆って飛翔する。
 ダークグレイの翼は、風をはらんで優雅に羽ばたいた。彼の白いマントは、もう一対の翼のようだった。

 白い卵海。
 その上空を行くのは灰色の翼の天使。その胸の中にいるのも小さな天使。
 天使達の卵の上。
 飛んで行くのは、天使。



 

   
         
 
<< BACK   NEXT >>