困惑をうかべたまま、彼は目をしばたたかせ、今まで考えたこともなかった自分の名前に興味を抱いた。
「わ、たしは……?」
初めて使われた声帯は錆びついていて、軋んだ掠れ声がかろうじてもれた。
虚ろだった天使は、たどたどしく記憶を探った。
三対の翼を持った黒い天使。刃物のように鋭い目をして、腰まである長い黒髪の天使。最初はひどく巨大な相手に思えたが、それは自分が小さかったからだ。一番最近見たその天使は、すでに自分の目線と同じくらいになっていた。
その天使は、虚ろな彼を『サフィリエル』と呼んだ。
「頭の中身が白いお前には丁度いい名前だ。同じ名前のヤツも「白頭」と呼ばれてるしな」
虚ろな彼をその名で呼ぶことで、その天使は陰湿な悦びを感じているようだった。もちろん、その時の彼には、相手のそんな感情になど気づくこともできなかった。今思い返してみて初めて、その天使の氷のような容貌に、そんな想いが浮かんでいたように思っただけだ。
その名前は、馴染み深いものに感じた。だが同時に、ひどく憂鬱な気分にさせられた。
本当の名前は。本当に呼んでもらいたい名前は……
よく、わからない。
それから、その天使は彼に、サフィリエルに仕事を与えた。
それがこの集積場で卵を数え、異常がないか確認する作業だった。
その時から毎日毎日、来る日も来る日も、ここで卵を数え続けてきた。
この、無数の卵達。果てのない卵海の中を、さまよい続けてきた。
数えて、数え終われば『異常なし』と記録するだけ。夜は眠り、朝に起きれば、また同じことの繰り返しだった。
サフィリエルは、どうして今までそうして暮らしてこられたのかが、不思議だった。自分がそうしてきた、ということが信じられなかった。
毎日同じことの繰り返し。話す相手もなく、定期的に確認に訪れる黒い天使以外、誰も見たことがない。
世界には、それこそ無数の天使達があふれ返っているのに。
「?」
だが、どうして自分はそのことを知っているのだろう。
聞かされた?
いや、確かに知っている。
知って、いたのだ。
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その天使は、天使達の内でもかなり若かった。
最後に孵化を許された数個の卵の一つから孵った天使だった。
その卵を産んだ天使は、最初自分の卵が孵されることに決まった時、とても喜んだ。自分の卵が選ばれたことは名誉なことだと、嬉しそうに言った。相手の天使も、自分達の卵が孵ることを喜んでいた。
その天使は、リフェールと名づけられた。いつか地上に下るときがきたなら、サシャ・翠憐(スイレン)と名乗ることになっていた。
祝福が呪詛に変わったのは、卵が孵り、その子供天使が、卵人でいえば、五、六歳ほどに成長してからだった。体はまだ、どちらでもない、無性の状態だった。
発端は、簡単なこと。二人の天使の不仲とか、そんな、よくあることだった。
天使は、女天使が卵を産み、孵し、男天使がそれを育てることになっていた。その最後の天使も、そうやって孵され、育てられていた。
「もう、うんざりだよ」
男天使がそう言ったとき、リフェールは家の近くで、一人で遊んでいた。
同年代の天使は、最後に孵された数個の卵から孵った天使達がいたが、離れた場所に住んでいたため、会ったことがなかった。だから自然と一人で遊ぶことが多く、一人で遊ぶことが得意になった。
その日、自分を育てるはずの男天使が、黒くつややかな舗装路に映る、わずかな光の反射のきらめきを飽きもせずに眺めていたリフェールに、一瞥もくれずにでて行ったことを、リフェールは気がついていたが、あまり気にしていなかった。
そして、外が暗くなり光の反射を眺められなくなると、リフェールは家の中に戻った。
リフェールを産んだ女天使は、床にへたりこんだまま肩をふるわせていた。
まさか泣いているのかと、恐る恐る近づいていったリフェールは、その女天使が泣いているのではなく、笑っているのだと気づいた時、なぜか怖くなった。
「どうかしたの?」
囁くように尋ねたリフェールを振り返った女天使は、笑いながらリフェールの細い首に両手をまわした。
「うぐっ……」
「あんたがいるから、あいつはでて行ったのよ。あんたがいるから、あたしは捨てられたのよ。うんざり、なんですって!」
一際甲高い笑い声をあげ、女は更に力をこめた。
「あんたの面倒を見るのも、あんたと暮らしていかなきゃいけないのも、うんざりなんだって」
「や……くる、し……」
「あんたさえいなかったら、一人の相手に縛られることもないし、いつまでも男性体のままでいなくても済むのにってさ。今度は、ふふ、今度は女になって、いい男見つけるんだって、そう言うのよ。そう言ったのよ!」
女天使はリフェールの首を掴んで、リフェールを跳ね飛ばした。
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