「いたッ」
硬い床に叩きつけられたリフェールは、なにが起こったのかわからなかった。今自分になにが起きているのか、わからなかった。
立ち上がろうとか、逃げようとか、そんなことを考えることもできないほど、ショックで呆然としているリフェールの肩を、女天使は背後から乱暴に掴み、黒いワンピースの背中に生えた翼を握りしめた。
リフェールの背中には、ようやく形を整えはじめた二対の黒い翼があった。
卵を産んだ女天使も、その相手の男天使も、背中の翼は一対だけだった。一対以上の翼を持つ天使は、いずれは高位天使として迎えられることがほぼ約束されていた。
「こんな、こんなものを、あんたが持ってるのはおかしいわ! あいつがでて行ったのも、あたしが捨てられたのも、ぜんぶあんたのせいなのに。あんたさえいなかったら、こんなことにはならなかったのに。あいつが、どうしてもって言うから、あたし今まで男だったのに、女になって卵まで産んでやったのに! あんたさえ産まなかったら!」
リフェールは、外が暗くなると自動的に明るくなる天井が、黒い床に、もっと深い影を作るのを、咳き込みながら見ていた。
女天使が言っていることは、よくわからない。自分が責められていることは、なんとなくわかった。でも、自分がなにをしたというのだろう。怒られるようなことをした覚えはない。うるさくつきまとうと怒られるから、今日だって黙って一人で遊んでいた。
「あんたが悪いのよ!」
女天使が背中で喚いている。
リフェールは、苦しくて滲んだ涙を拭うこともせず、黙ってじっとしていた。なにが彼女を怒らせてしまったのかわからないけれど、逆らえばもっと怒られる。
そう思ってされるがまま耐えていたリフェールは、心とは裏腹に、反射的に身体が跳ねあがるのを感じた。
「!?」
「罪人にこんなもの、いらないのよ!」
背中に、弾けるような熱と痛みがあった。
翼のない天使は、生まれながらの不具者か犯罪者で、どちらも扱われ方は変わらない。避けられ蔑まれ虐げられて、いつか姿を消した。
地上へ逃れるにも、空を駆ける翼のない彼らがどこへ行くのか。彼らだけの隠れ家へ潜み、そこでひっそり暮らしているというのは、いい方の噂だ。天使達の慰みものになって、いたぶられて焼かれて殺されたのだというのは、悪い噂だが、その方が信憑性はありそうだった。
生まれついての不具者でもなく、翼を切り落とされるほどの罪を犯したわけでもなく、それでも翼を引きちぎられてしまった天使は、それならどうすればいいのだろう。
天上の都市にあっては、天使達はみな、背中に翼を有している。持っていないものは、どれだけの侮蔑、虐待を受けても、仕方ないのだと言われる。
それが、生まれた時に定められた運命でも、自ら選んだ運命でもないのなら。
(それとも……これも運命ってものなの?)
淡いピンク色の液体をたれ流しながら、リフェールは半ば諦めた気持ちで思った。リフェールを産んだ女天使は、二対の翼を握りしめて甲高い悲鳴のような声で笑っている。
背中に空いた桃色の孔からは、リフェールの血と一緒に魂までもが流れでていくようだった。
遠のいていく意識に、刹那、ノイズのような光の砂がひらめいて、すぐに消え、
その後リフェールの魂が再びその瞳を輝かせることはなかった。
女天使は小さな小さな翼を両手に握りしめ、いつまでも笑い続けている。
黒い床に薄紅の血だまりをつくって、うつ伏せに倒れているリフェールの傷口に、ヒラヒラと光の粒子が踊るのには気がつかなった。
その傷口に光が吸いこまれて、目にみえる早さで傷口が塞がっていくのも、一度は静止した呼吸が、再びゆっくりと繰り返されはじめたことにも、気がつかなかった。
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そして、それから間もなく、容赦なくぶつけられる言葉と拳の奔流から、リフェールは泣きながら、都市の外れまで走って逃げた。あの日のショックからか、いつの間にか、リフェールの体は、無性から少女のものへと変化していた。
都市を形成するビルの群から抜けだし、黒い舗装路だけが一本、白い雲海の中を伸びている先にある、ポツンと建てられた巨大な黒い建物へと、リフェールは招き寄せられるように逃げこんだ。
黒い建物の中では、虚ろだった天使が自分の名前を思いだし、その後も続く卵の海との関係の中で、再び自分の名前を忘れそうになっていた。
二つのきらめきをその身に宿した天使達が出会ったその時、
無数の卵の一つ、一際明るいきらめきを吸いこんだ卵もまた、ほのかに、祝福するように、静かにまたたいた。
静かに。
静かに。
きっと、また会えるよ。
会えるよ。
<了>
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