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乱立する高層ビルの群れ。
薄汚れたビル群の中で、その尖塔はひときわ高く、灰色の空を貫くように聳えたっていた。黒一色にぬりこめられた高層ビルは、その鋭く尖った頂に、鈍く光る銀色の鐘を掲げていた。翼持つ者でなければ、その鐘に触れることもできないはず。銀色の鐘を吊るした三本の黒曜石の柱は、互いを支えるように、傾き重なり合っている。一番近い窓からも、その場所はひどく遠くにある。どうやってそこに飾られたのかさえ不思議だった。
その肩に白い小さな卵を乗せた、闇色の翼の天使が、そのビルへと近づいてきていた。
彼の白髪は風に乗り、その翼に合わせて空を舞っている。力強い羽ばたきの音が、黎明の静けさを破り、天空に響き渡る。
〈あ、あれ!〉
と、高く跳ねあがった多良太の声に視線を促され、ルーァはひときわ高いビルの頂に目をやった。
「……鐘、か?」
〈あれかなぁ。これだよ、きっと〉
今は静かに。ひっそりと音もなく。永劫の静寂の中、その鐘は微動だにせず、重厚に沈黙していた。まるで、過去に一度たりともその身をふるわせたことがないように。
「本当に、これなのか?」
誰に問いかけるともなく呟き、ルーァは柱の一本に手をかけ、塔の先端にふわりと爪先を乗せた。翼をゆるゆると動かして、微妙なバランスを取りながら、その銀光りする鐘を観察する。
「だが、どうやって鳴らしたんだ? 機械仕掛けなのかと思ったが……そうでもないらしい」
自分のように翼を持つ者なら、鐘の中心から下がる鎖を振って、鐘を鳴らすこともできるのだろうが。
だが、地上の天使に羽はない。閉じた翼を再び開く痛みを嫌い、天から下った天使もその羽を忘れる。
〈でも、これだよ、きっと。ルーァみたいに空を飛べる天使が、他にもいるんじゃないの?〉
「そう、かもしれない」
だが、どんな目的でこの鐘を鳴らしたのかわからない。翼持つ地上の天使は、一体、なんのために鐘を打ち鳴らすのだろう。
漠然と、翼を忘れぬ地上の天使に想いを馳せて、ルーァはゆったりと周囲を見渡した。
そのビルの先は、今はすっかり廃墟となった街並みが広がっていた。風にのって遠く、誰かの悲鳴が聞こえる。そして笑い声。幻聴だろうか。
無意識の内にコートのポケットに両手をつっこみ、ルーァはその指先に触れた、冷たく固い感触に眉をひそめた。薄い板のようなそれを、指先に挟み、取りだしてみれば、オレンジ色の透明な住所カード。
『見つからなかったら、おいでよ』
そう言った女天使。
『お前、絶対後悔するからな』
ふいに脳裏をよぎるあの台詞。 嫌な予感が、確かに胸の奥で燻っている。
だが、後悔はしない。たとえそれで、この身が滅んでも。
ルーァはオレンジのカードをポケットに戻し、肩の卵に視線を落とした。
後悔はしない。この肩に、この卵があることを。
〈だれ?〉
ふいに、多良太が耳をそばだてているような声で囁いた。姿のない何者かへの問いかけ。
「どうした、多良太」
〈声が聞こえるよ、ルーァ。だれかが叫んでる。こんなに大きくて強い声は聴いたことがないよ。……呼んで、いるの? 呼んでるよ、ルーァ〉
「だれを」
〈ぼくらを、呼んでるんだ。叫んでるんだ。ルーァ、行かなくちゃ。ぼくの中で鳴り響いてる。ルーァ、この声を止めて〉
「ここから離れるか?」
〈ダメだよ、ルーァ。逃げてもダメだよ、行かなくちゃ。だって、離れたってこんな大きな声、きっとどこにだってついてくるよ。だから行って、この声を止めるんだ〉
「どこから聞こえる?」
〈あっち〉
「どこだ?」
〈このビルの先、もっと先に行って〉
あの廃墟の都市に?
そう思った途端、なぜか胸が騒いだ。灰色の不安のようなものが胸の奥に渦巻いている。
だがルーァは、敢えてその予感を押し殺し、多良太の願いを叶えるべく、再び空へとその身を踊らせた。
暗灰色の雲の海。
押し潰されそうな鈍色の空を背に、ルーァは漆黒の翼で天を駆る。
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