卵人狩  
3章「卵人達の朝闇」
 
 
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 ハッハッハッ……
 短い呼吸の音が、やけに大きく響いていた。破裂しそうな心臓の鼓動が、耳の奥で耳鳴りのように聞こえる。
 ビルとビルの狭間。昼なお暗い影の道を、サキは走り続けていた。
 青白い顔の両頬だけを上気させ、血の気の失せた唇は、酸素を求めて狂おしく喘いでいた。
 と、
「あッ!」
 朽ちかけてひび割れた舗道が足先に絡みつき、サキの細い身体が、フワリと一瞬、宙に浮く。
 そして次の瞬間、サキは冷たい道路へ投げだされた。
「!」
 咄嗟に頭を庇ったものの、したたかに身体を打ちつけ、息がつまる。
「……ゲホッ……ケホゲホッ」
 咳込みながら両手で半身を起こし、立ち上がるために力を込めた右足に、突然の熱。
「っ!?」
 灼熱の炎の手が、その足首を捉えたかのように、サキはその熱さに目を見張った。
 自分の足元を顧みて、それがみるみる赤く腫れあがっていくのを、サキはスローモーションの映像を眺めているような想いで見つめていた。
 逃亡者の足の負傷は、追跡者に有利に働くだろう。
 加速度を増す絶望を頭から振り払い、サキは右足に負担をかけないように、両手と左足だけで立ち上がり、狭い路地裏の汚れた壁に手をかけ、片足立ちで身体を支えた。
 早く、早く、早く。
 少しでも早く、遠くへ。
 頭の中で叫び続ける誰かの声。他人のもののような自分の声。
 サキは歩きだした。右手で壁を伝い、ひょこひょこと場違いなダンスを踊るように、サキは片足で跳びはねるように歩きだした。
 目的地があるわけじゃないけれど。
 ただ、少しでも遠く、少しでも早く、歩かなければ死んでしまう。立ち止まれば、そこにあるのは、厳然たる確実な死だけだから。
 歩かなければいけない。立ち止まるわけにはいかないなら、歩くしかない。
 暗黒のビルの狭間。薄い光が幻のように、上空と前方から差しこんでいる。燃えつきるまで炎へと飛び込む羽虫のように、いつかサキは、路地の終わり、前方より来たる光を目指して歩いていた。

 廃墟の都市の広場。
 薄れゆく朝闇の中、サキの目前に忽然と開けたのは、朽ち果てた都市の広場だった。
 はるか昔の喧騒の破片が脳裏を掠め、過去の幻を垣間見せる。

 戯れる子供達。寄り添い歩く恋人達。声高に笑いささめく少女達。そんな少女達を横目で見ながらはしゃぐ、少年達。買い物帰りに道端で会話を楽しむ女達。穏やかに微笑む老人。花売りの花が、雲ひとつない真っ青な空を舞い、風船売りの色鮮やかな風船がそれを追い越していく。そして、きらめく飛沫を散らし、青空に虹を描く噴水。

 束の間の夢に、サキは目をしばたたかせ、誘われるように、広場の中心へと片足で歩み寄った。
 鈍色の廃墟の中、鮮やかな幻をまとった噴水。その驚くほど澄んだ水に触れれば、熱をおびた足首の痛みは消え失せ、残酷な現実すらも、鮮やかな幻に飲み込まれてしまうような気がした。時空の鎖を解き放ち、この都市が夢見る頃へと自分を導いてくれるような気がした。
 そんな根拠のない幻想に我を忘れ、サキは幻の源へと手を伸ばした。
 その指先が、冴えた飛沫に触れたかと思った瞬間、都市の幻は、音もなく、サキの夢を醒ました。
 耳鳴り。途端にのしかかる空虚な絶望。水などただの一雫もない、枯れ果てた噴水。
 ひび割れた石畳に、サキは崩れおちるように座り込んだ。足首の熱は鎮まることもなく、心身を蝕み続けている。転んだ時に擦りむいたのだろう。今頃になって、掌と腕の内側が、幾筋もの赤い傷になってヒリヒリと痛む。
 そしてサキは天を仰いだ。
 死を招く告死鳥。
(あたしはここよ。あたしはここにいるの。どうかお願い、あたしを見つけて。あたしを連れていって。天使達に嗤いながら殺されるぐらいなら、あなたの黒い嘴に貫かれた方がいい。あなたの鉤爪に切り裂かれた方がいい。あなたの翼であたしを空高く連れ去って、あたしを雲の上から投げだしてよ)
 サキは、叶うことのない願いと知りながら、ただそれだけを強く願うことで、辛うじて恐怖と絶望のもたらす狂気を抑えつけていた。抑えつけていると思っているのは、自分だけかもしれないと思いながら。
(あたしは、ここよ!)


 

 

   
         
 
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