卵人狩  
1章「薄闇の都市」
 
 
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1-11


〈それは、嫌いってことじゃないの?〉
「……どうだろうな」  
〈ねぇ、だけど飛んでみたいなぁ〉  
 その時、ルーァはようやく、多良太という名の卵が、なにを言いたいのかを理解した。
「私に飛べと言うのか?」
〈ダメ?〉
「……」
〈ね、ダメ? ぼく、飛んでみたい。お願い、ルーァ、ね?〉
 小首を傾げ、上目遣いに頼みこむようなイメージ。
 こんな願いを、断れるだろうか。そう考えてから、ルーァは、自分が断りたいと思ってはいないことを感じた。それどころか、自分にできることなら、どんな願いでも叶えてやりたいとさえ、感じている。自分自身の想いに驚いたが、決して不快な驚きではなかった。
「わかった。飛ぶだけなら」  
〈ホント? ありがとう、ルーァ。嬉しい〉
 心からの喜びが、その声に満ち溢れていた。  
 ルーァは滑るようにベッドから抜けだし、多良太に目をやった。卵は嬉しげにまたたき、惜しげもなく光を散らす。その光に、光を失った我が身とこの世界を想い、ルーァはやるせなさに目を伏せた。  
 だが、失われた光のすべてをその内に抱いているかのような白い卵があるのなら、そう嘆くこともないのかもしれない。腐りかけの果実のようなこの世界にも、新しい実をつける力が、少しは残っていたのかもしれない。  
 伏せた目を閉じ、背中へと意識を巡らせると、身体の芯に、恍惚感にも似た感覚が沸きあがった。ルーァは深く息を吐き、ブルリと身をふるわせた。
 ルーァが背中に力を込めると、優美な曲線を描く背中が、ぐっと盛りあがった。ちょうど健康骨の付近だ。疼くような快感が苦痛に変わる。ルーァは顔をしかめ、苦鳴をこらえた。体は、抑えようもなく小刻みにふるえる。
 メリッ  
 音をたて、白い背中を食い破り、折りたたまれた黒い翼が先端を現わした。  
「くっ……」  
 下唇を強く噛みしめると、苦い鉄の味がした。  
 メリメリメリッ  
 息をとめ、目をきつく瞑り、力を込めて、一気に翼を体外へ押し出す。  
 バサッ  
 音をたて、闇色の翼がその全貌を現わした。
 ルーァは閉じていた目を開けると、短く息をつき、光さえ吸い込むような黒い翼を、バサリ、と拡げ、閉じた。すらりとしたその身体より大きな翼は、どうやってその身にしまわれていたのだろうか。  
 額に滲んだ汗を拭うルーァの耳に、うっとりと囁く多良太の声が聞こえた。  
〈きれいだね、ルーァ〉
「なに?」  
 まだ、頭がぼんやりしていた。地上で翼をだすのは抵抗が強くて、気が遠くなる。だから、地上に降りた天使達は、翼を忘れてしまうのかもしれない。地上に降りる天使は多くても、天上に帰ってくる天使は、ひどく少ない。  
〈すごくきれい。いいなぁ、ぼくも欲しいなぁ〉  
 淡かに光って囁く多良太に、ルーァは複雑な表情になった。  
「あるだろう? お前にだって」  
〈わからないよ、まだ〉  
「天使なら、誰だって持っているはずだ」  
〈……ねぇルーァ? ぼくは天使なのかなぁ〉  
「なんだって?」  
〈違うかもしれないよ〉  
「違う?」  
 天使じゃなければなんだというのだろう。  
 卵から生まれるのは、天使だ。  
(卵人は、卵じゃなく、女の腹から血まみれになって産まれると聞いたが、これは卵だ。卵人じゃない。天使じゃないのか?)  
 だが、天使の卵は喋らない。
〈だってそんなの、生まれてみなくちゃわからない、でしょ?〉  
 ルーァはなんと言うべきかわからなかった。  
〈でも、あるといいなぁ……〉  
「あるだろう、たぶんな」  
 自分でも確信の持てぬまま曖昧に応え、ルーァは、ソファの背もたれにかけておいた服を手にとった。黒いスリムパンツを履き、背中に二本のスリットが入ったシャツを翼の上から羽織る。天上では、もっとゆったりした黒いローブを身につけていたが、地上に下りると決めた時に、地上で着るのに違和感のないものを求め、譲ってもらったのだ。その見返りとして、天上での彼の住まいを、その中身ごと相手に差しだしてきた。随分と不公平な取引といえたが、一度地上に下りた後は、天上に戻る気のなかったルーァには、どうでもいいことだった。
〈ほんと? あったら、いいな。ぼく、早く生まれて、自分の羽根で飛んでみたいよ。ルーァと一緒に、空を飛べたらいいな〉  
 黒い翼をスリットの間から外へだして、形を整える。  
「今は、生まれていないのか? 私にはよくわからないが」  
〈だってぼくは卵だもの。卵は、孵るんでしょ?〉  
 なにも知らないと言いながら、どうしてそんなことを知っているのだろう。誰がそんなことを教えたのだろう。この卵を産んだ天使だろうか。そして、この卵を産んだ天使は?  
 ルーァは、ナイトテーブルの上に置かれた、背中に切れ目のある黒いコートを羽織った。ケープとひだに紛れて切れ目はわからなくなる。
「普通はそうだな」  
〈まさか、ぼくはこのまんまなの? いやだ、どうしよう! きゃああぁ〉  
 多良太があまり危機感のない悲鳴をあげる。むしろ楽しんでいるかのようにも聞こえた。  
〈でも、そしたらずっと、ルーァの肩の上にいられるよね? それなら、それも悪くないかもね〉
 ルーァは、なにも言えなかった。言葉を失ったルーァに、多良太は何事もなかったかのように、
〈準備、できたの?〉  
 にこやかな声で確認した。実際、多良太にとっては、こんな言動は、大したことじゃないのだろう。それほど深刻に受け止めるようなものではないのだろう。卵には、天使の歪められた感覚はない。 
 無邪気な……天使であったなら、有り得ないはずの無邪気さしかないのかもしれない。



 

   
         
 
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