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「嫌な噂を聞いたよ」
そう囁いて、体格のいい年配の女は、圧迫感を覚えるほど近くに顔を寄せてきた。思わず背中を逸らして顔を背けたくなるのを堪え、少女は、長い栗色の髪を片手で梳きながら、
「そう?」
と、素っ気なく応えた。
少女の無関心さは、女のお喋りに、かえって拍車をかけたようだ。女は更に身を乗り出し、少女の細い腕を深緑のくたびれたワンピースドレス越しに掴んで、真剣な口調で続けた。
「本当に本当さ、嘘じゃない。奴等がまた、あのくそったれなお遊びをする気らしいんだよ。それで、お遊びの相手を物色しに来るんだってさ」
「あいつらは、いつだってそうじゃない。いつだって、暇つぶしの慰み物を見つけちゃ、好き勝手するのよ」
投げやりに言った少女に、
「ああ、ああ、そうともさ」
女は勢いよく何度も頷いた。ボサボサの黒髪が派手にゆれている。少女の腕を掴む手にも力がこもり、少女は痛みにちょっと顔をしかめた。女は、そんなことにはまるで気づいていないようだった。
「だけど、普段は一人歩きをする運の悪いバカなヤツが、何人か連れてかれるだけだろ。けど、あいつらが例のお遊びをする時は違う。犯罪者を処罰するためって言って、何十人もの仲間が連れ去られるんだ。それが、犯罪者たって、殺しや盗みをしたヤツってワケじゃないんだからね! 信じられるかい!?」
「すべての卵人は、その存在自体が罪」
言いかけた台詞を横合いから奪われて、女は一瞬気分を害したようだったが、すぐに、そんなことなどなかったかのように声を張り上げた。
「あたしらは、みぃ~んな罪人なんだってさ!」
薄暗いレストランの中は半分以上の席が埋まっていたが、店内に流れる音楽を制して響き渡った女の声に、明らかな反応を示した者は誰もいなかった。だが、彼等がひそかに耳を傾けている気配はある。少女には、それが少し嫌だった。
(この手、放してくれないかな)
そう思いながら、無表情に女を眺める。女は、益々エンジン全開で喋りまくっている。声を潜めて話すことすら忘れてしまったようだ。
「そうさ、確かにあいつらに比べたら、そりゃあたしらは醜い生き物さ。目障りだって言うんだろ。でもさ、少なくとも、中身はあいつらみたいに邪悪じゃない。あいつらときたら、傲慢で陰険で残忍で……それが赦されんのは、ただあいつらの入れ物が立派でおキレイだってだけだろ。大体……」
少女はかすかなため息を吐きだして、
「ねぇ」
と女の注意を促した。
「それを、あいつらの前で言える?」
女は言葉に詰まり、目をしばたたかせた。
それから、ようやく少女の腕を放して、さっき頷いたよりも激しく首を振った。
「まさか! 冗談じゃない、殺されっちまうよ! それに、あいつらの姿を見たら、喉と心臓をいっしょくたに絞めつけられてるみたいになっちまうんだ。なんか一言でも言えるかどうか。お前だってそうだろ?」
少女は掴まれていた腕を膝の上にひっこめ、反対の手でさすりながら言った。
「そうね、叔母さん。だから、そんなことを大声で言うのはやめない? あいつらの耳は、どこにあるのかわからないんだから」
静かに、やさしく、そう諭されて、女はハッとしたように口を噤んだ。まるで、年配のその女より、鮮やかな翠の瞳の少女の方が年上のようだった。見た目は明らかに、未だ少女と決別出来かねているのに、その口調はやけに大人びている。生き抜くのに、ひどく厳しい現実のせいだろうか。
女は大柄な身体を竦め、辺りをキョロキョロと見回す。囁くような声音には、ひきつったような怯えがあった。
「あいつらに聞かれちまったのかい!? どうしよう、あたし、殺されちまうよ。ねえ、サキ、あたしゃどうしたらいいんだい!?」
サキ、と呼ばれた少女は、彼女の叔母を落ち着かせようと、極力穏やかな声で応えた。
「大丈夫よ、ノーナ叔母さん。静かに、目立たないようにしてれば、あいつらだって気づかないわ。あいつらにとったら、あたし達は誰も彼も同じなんだから。あいつらの目に止まりさえしなきゃ、平気よ」
「そうかい……?」
と、一旦安心しかけたノーナは、すぐにかぶりを振った。
「いや、駄目だよ。いくら普段、目立たないようにしてたって、今度みたいなあいつらのお遊びがある時は別さ。目につこうがなんだろうが、その場にいた連中、片っ端から連れてかれるんだからね」
「でも、その捕獲者に出会うとは限らないわ。いつどこに現われるか、誰も知らないんだもの」
「そうさ。だけど、嫌な噂を聞いたって言ったろ? どうもあいつら、次はこの区画を狙ってるらしいのさ」
「……本当に? 確かに、最近この辺りには現われてないし、そろそろ来てもおかしくないかも」
女は、どこで聞いてくるのか、やけに情報通なところがある。まったくのでたらめとは思えなかった。
「だろう!? だから言ってるんだよ。逃げた方がいいってね」
「でも、叔母さん。逃げるってどこに?」
決められた区画から離れることは許されていない。別の地区に入るには許可証が必要だ。
そして許可証は、存在しない。
「逃げられないんなら、隠れるんだよ。せめて、次の犠牲者が連れてかれて、また暫くは安全だってわかるまでね」
「駄目よ、叔母さん。あいつらから隠れられるとこなんて、逃げられるとこなんてないわ。それに、あいつらは隠れたり逃げたりしてる相手を、探して捕まえるのが好きなのよ。かえって、そっちの方が、あいつらを誘うようなことになっちゃうわ」
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