卵人狩  
1章「薄闇の都市」
 
 
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「……」
〈どこだっていいんだもの、どこへでも〉
 薄暗く、落ちない穢れに色を染めた都市を見渡し、不必要に高いビル群を見上げ、白髪の青年は自らに問いかけた。
(どこへ行こう、私は。どこへ行こうとしていた? 別に、どこかへ行こうとしていたわけじゃない。ただ、逃げてきただけだ。不快な世界から憂欝な世界に、逃げてきただけだ。そんな私が、どこに行けるというのだろう)
 黙ってしまった青年を気遣うように、卵はやわらかく光り、囁く。
〈あのね、どこかへ行こうなんて、考えなくていいよ? どこだって同じだもの。ねぇ、あなたをなんて呼べばいいの?〉
「……私は、ルーァ・彩音(サイネ)。天上ではサフィリエルと呼ばれていた」
 二番目の名前を口にするときは、無意識の内に声を潜めていた。自分でも気づかないほどの密かなため息がこぼれ、頭の中を、黒く澱んだ世界の記憶が、慌ただしく流れていく。
〈えっと。どっちの名前で呼べばいいの?〉
「どちらでも。……いや、サフィリエルと呼ばれるのはあまり好きじゃない。地上に降りてまで、天上での名前で呼ばれたくはない気がする」
 その名で呼ばれて、思い出すのは不快なことばかり。浮かんでくるのは、憂鬱な記憶ばかり。
 今この時まで、名前になんて大した意味はない。どんな名前だろうと、どう呼ばれようと、関係ない。そう思っていたが、長い年月をかけて刻みこまれた名前の呪力に、これほどまでに感情と記憶を揺すぶられるとは思っていなかった。
 自分の口からその名を告げてさえ、こんなにも気が重くなるのなら、誰かに呼ばれた時はもっと憂鬱だ。それ以外に呼ばれることのなかった頃は、無意識の内にその名前に対して壁を作っていたのだろうか。呼ばれなくても済む、そう思った途端に、その名に対する障壁を無くしてしまったようだ。
 まるで、それがキィワードのように、耳に響いただけで天上でのことが思い出された。どれも思い出したくないことばかりだ。
〈じゃあルーァ? 聞いてもいい?〉
 そう呼ばれるのなら。
 自分の中でも新鮮な、その名前で呼ばれるのなら。
 嫌なことも思い出さずにいられるかもしれない。
 そしてできることなら。
 できることならこの名前が、すべての喜びに繋がるものになればいい。
 ルーァは、小首を傾げる子供のイメージに、心なしかゆっくりと問い返した。
「なにを?」
〈ルーァは天から降りてきたの? それは普通のことなの? それとも珍しいこと?〉
「最初は、みんな天、空の上に住んでいた。時折天上から下ってくるのを見た者達が、天からの使者と、天使と呼んだ。 天上で暮らしていた者の多くが地上に住むようになった今も、私達は天使だ。誰にとっての天使だか知らないが」
 なげやりな口調で言って、ルーァはわずかに口元を歪めた。
 暗い空を見上げようともしない。
 卵は、ふぅん、と言って、気を取り直したように明るく尋ねた。
〈それで、ぼくをなんて呼んでくれるの?〉
「え?」
〈ルーァがぼくを呼んでくれなきゃ、ぼくはいつまでも名無しのままだもの〉
「名前が、ないのか?」
〈だって、ぼくは産まれたばかりだもの。生まれてはいないけど〉
 光を散らして卵が笑う。
 ルーァは、戸惑いがちにまばたきして、光の破片を暗い大気にきらめかす卵を見た。
「私に、名前をつけろと?」
〈うん。どんな名前をくれるの?〉
「名前なんて、つけたことがない」
〈じゃあ、ぼくが最初なの? 記念すべき第一号だね?〉
「……」
〈ね?〉
 顔を覗きこまれた気がした。
 ルーァは、淡く光る卵を見つめ、暫くの間見つめ続けた。
 肩の上の白い卵。
 こんなに絶えず光を放つ卵は、見たことがない。本来なら、産みおとされてから少しずつ光を失っていくのに。むしろ、最初に見た時よりも強く光る。そんなことも有り得ないはず。卵が明滅するなんて。そもそも、口を利くこと自体が普通ではない。
(だが、そんなことはどうでもいい。今考えるべきなのは、この卵の名前。卵を産んだこともない私が、卵に名前をつけるのか? 卵自体の名前か? その中身じゃなく? ……そんなことも、余計なことだ)
〈ねぇルーァ? なんて呼ぶの?〉



 

   
         
 
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