卵人狩  
1章「薄闇の都市」
 
 
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1-02


「?」
 ふいに聞こえた、澄んだ子供の声に、青年はわずかに眉根を寄せ、周囲を見渡した。
 なにもない。
 彼を見る者もなく、誰もが無関心に行き過ぎていく。
(幻聴か?)
 気のせいだったのだろう、そう思った時、再び声が響いた。
〈連れていってよ〉
 声は、卵からしたようだった。
 だが、そんな馬鹿なことがあるだろうか。卵が口を利くなど有り得ない。考えられないことだ。ことだけれど……
「どこへ」
 彼は応えていた。
 現実も、幻想も、どちらがどうでも構わない。腐敗してゆく都市の中で、こんな幻を見るのもいいかもしれない。
 現の幻は、少し光を増したような気がした。
〈どこでもいいよ〉
「どこでも?」
〈うん。どこでも、どこまでも。ねぇ、肩に、乗せて?〉
 歌うような子供の高い声。こんな楽しげな声を聞くのはひどく久し振りだ。それとも、これが初めてだろうか。
「肩に?」
 青年は自分の右肩を左の手で撫で、その感触を確かめながら卵に言った。
「落ちると思うが」
〈大丈夫。落ちたくないって思えば、落ちないから。離れようと思えば、いつだって離れられるよ。気持ちの持ちようだもの。だから、大丈夫〉
 その論理は理解し難く、ただ疑問に疑問を重ねただけだったが、彼は疑問を放棄して頷いた。
「……それなら、好きにするといい」
〈ありがとう〉
 ありがとうだなんて、そんな言葉もあったのだと、青年は奇妙な気分になった。一体誰がそんな言葉を口にするだろう。そんな言葉を聞くだろう。
〈ね、早く乗せて〉
「わかった」
 抑揚のない声で頷き、ぎこちない手つきで卵に触れる。初めて触れる卵の感触に、どれほどの力で持てばいいのかわからない。青年はおそるおそる、そっと両手で持ち上げた。
 あたたかい鼓動。淡い光は掌の中に。
 手の中で卵が問う。小首を傾げる子供。
〈ねぇ、どっちの肩がいいの?〉
「乗せるのにか?」
〈うん〉
「別に、どちらでも」
 気のない返事にも、卵は歌うように、
〈それなら、ねぇ? ぼくが決めてもい~い?〉
「ああ」
〈うーんとねぇ……うん、右の肩がいいな〉
「わかった。服の上からでいいんだな?」
〈うん〉
 そっと、加える力がわからずに、落とさないようにそっと、青年は卵を左手に持ち替えて、肩の上に乗せた。
 離せばそのまま転がり落ちてしまうんじゃないかと、青年が少し躊躇し、手を離しあぐねていると、それに気づいた卵が透明な声に笑いを含ませた。
〈落ちないよ、平気。手を離して〉
「本当か?」
 まだ少し不安に思いながらも、卵を持つ力をゆるめた途端、
〈あッ! 落ちるぅっ!〉
 卵が激しく明滅して悲鳴をあげた。
「!?」
 ハッとして、咄嗟に卵を支えた青年の手の中で、卵は声をたてて笑った。
〈大丈夫だよ。冗談だから〉
 笑う声は光となって、淡い光の粒子を散らす。
 卵の放つ光に、そこだけ厚い雲も存在しなくなる。都市の影も埃も、その周囲だけ失われた気がした。こんな光に覆われていた頃もあったのに。
「……なに?」
 青年には、卵の言葉の意味が、一瞬わからなかった。その笑い声の理由がわからなかった。
(冗談? 冗談!?)
 理解して、した途端、彼は反射的に手を離した。
「好きにしろ」
〈あ、怒ったの? ごめんね、怒らせちゃった?〉
「いや、怒ったわけじゃない」
 たぶん。
 自分がそれで腹を立てているようには思えなかった。ただ、うまく言葉にできないが……
〈ごめんなさい〉
「怒ったわけじゃないんだ」
 ただ少し、奇妙な気分だった。
 こんな会話を、過去にしたことがあっただろうか。記憶にはない。だがら、どんな言葉を返せばいいのかわからなかった。なにを想えばいいのか、わからなかった。
(不思議だ)
〈本当?〉
 卵がホッと吐息をつく音が、聞こえた気がした。
 有り得ない、と、青年は心の中で首を振った。
 だが、目には見えなくても確かにそう感じることがある。それを否定する必要が、本当にあるのだろうか。
〈良かった。ねぇ、それなら行こうよ〉
「行く? どこへ?」
 肩の上にちょこんと乗った卵に促されて、青年は首を傾げた。
 目的地などあるのだろうか。
 彼には、ない。
〈だから、どこでも〉
「どこでも?」
〈どこへでも〉




 

   
         
 
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