その日、貨物室いっぱいの荷物と共に、客室の一つを割り当てて、エウロパまで運ぶことになった五十代半ばの大柄な男は、惑星生まれの惑星育ちで、旅行も殆どしたことがなく、ましてや宇宙旅行となると、これが正真正銘はじめてだった。
乗船する前から、ソワソワと落ちつかなげに胸元をまさぐり、鳶色の目は一時たりとも同じところを見ていなかった。
(大丈夫かな、このおっさん)
青は、目的地までの仮の住まいとなる客室に、レネゲイと名乗る男を案内しながら、一抹の不安を覚えていた。
共有キッチンとメインキャビンは、必要があれば入っても構わないが、ブリッジ、貨物室、機関室などの設備には立入禁止。食事もトイレも出たくなければ自分のキャビンで全て済ませられるようになっているし、給食ユニットの使い方がわからなかったら、船のAIに聞けばいつでも教えてくれる。
そんなことを説明する青の言葉も、耳に入ってるんだか入ってないんだかわからない。
(まぁそんなヤバイことにもならないだろ。どうせ二日もすれば着くんだし、妙なことする余裕すらなさそうだもんな)
そう思って、後は自由にと言い残し、男を一人にしてから半日。
男の存在を忘れかけて、自室で昔の拳法映画を観ていた青は、どこか甘くて照れ臭くなるような声に見せ場を邪魔されて、ちょっとため息をついた。
『青、お楽しみのところ申し訳ありません。レネゲイ氏が至急助けてほしいとおっしゃってます』
一瞬、いつもの「えみち行方不明事件」かと思った青は、意外な名前に少し驚いた。
「助け? なにがあったんだよ」
尋ねながらもすぐに立ち上がり、青は自分のキャビンを出て、レネゲイ氏に貸したキャビンに向かった。
『失礼して客室内のカメラを作動させたんですが、ベッドの前で蹲っていて』
「病気か?」
『センサーには本人の不調は感じられないのですが……』
「? 本人じゃなきゃなにが」
悪いんだと言いかけたのを、背後からの瑪瑙の呼びかけが遮った。
「タマ」
見ると、同じくアンバーに呼ばれたのだろう。瑪瑙と翡翠がすぐ傍までやってきていた。
「タマじゃねェっつの」
条件反射で答えて、青は二人と一緒にレネゲイ氏のキャビンの前でインターコムを使った。
「失礼します、なにかあったんですか?」
青の問いかけに、中から明らかに動揺した声が応えた。
「あ、ああ、それが……一体どうしたらっ」
「?」
「とりあえず、中に入ってみるか?」
「そうだな」
青は瑪瑙に頷き、扉の横の開閉パネルに手を触れた。
「開けますよ」
スライドドアが開くと、大きさや造りは同じだが、日頃生活している三人のキャビンとは違って、かなり殺風景な部屋が目に入った。目の前の白い壁には、なんの飾りも彩色もない。備え付けられているのも必要最低限のものだけだ。
ユニット式のベッドの前にしゃがみこんだレネゲイ氏は、無防備なまでに途方に暮れた顔を三人に向けた。
「どうしました?」
青が声をかけると、レネゲイ氏は太い眉毛を八の字にして、そっとベッドの上を指差した。
「わ、私のペットがグッタリして、さ、さっきから動かないんだ」
「えっ! それは大変……って、ペットぉ!?」
思わず素っ頓狂な声を張り上げて、青はまじまじと男の指差す物体を見つめた。
白い毛並みのせいで、パッと見にはわからなかった。細長く先のとがった耳と、フサフサの長い尻尾。四肢の先がわずかにミルクティーのような色をしている。
フェルキリアン・ナージャ、通称フェルキと呼ばれる、スマルト原産の動物によく似ている。というか、おそらくそのものだろう。
「ペットは持ち込み禁止だろ!? っていうか、どうやって連れてきたんだよ!」
思わず敬語を忘れて叫ぶ青に、レネゲイ氏は心配に震える声で答えた。青の口調の変わりように気づく余裕もないらしい。
「いや、宇宙なんて始めてだし、新しい土地で暮らすのも正直、心細くてな。だから、ずっと服の中に隠して、重量検査の時も一緒にいたんだ。黙ってたのは悪かった。だが、宇宙に出てから具合が悪くなってしまって……。頼む! なんとかしてくれないか!?」
「なんとかって……」
(動物の病気のことなんか、わかんねェよ。ったく、なんでこんなこと)
途方に暮れて助けを求めるレネゲイ氏に負けず劣らず途方に暮れて、青は呆然と立ち尽くした。
と、その時、唐突に翡翠がベッドに近づき、グッタリしたままのフェルキにそっと囁いた。
「どうしたの? どこが悪いの?」
「そんなん聞いてわかるかっての」
呆れたように呟いた時、フェルキが小さな弱々しい声で鳴いた。
「キィウ……」
それはまるで、翡翠の問いかけに懸命に答えようとしているかのようだった。そして正にその鳴き声を聞いた途端、翡翠が顔をあげて言った。
「なんかねぇ、どうも宇宙酔いみたい」
「なんでわかんだよっ!」
当たり前のようにフェルキの症状を告げる翡翠に青が突っ込もうとするのを、レネゲイ氏が、暗闇に見えた一瞬の光に縋るような表情で遮った。
「宇宙酔い? それは、治せるのか!?」
「えっ、あ、それは、……アンバー?」
レネゲイ氏の真剣さに気圧された感じで、青はアンバーに救いを求めた。アンバーは青の求めにすぐさま応え、
『大丈夫です。人間外の生物に対する処方箋データもありますから。今、合成中です』
「ってことで、大丈夫みたいっすよ」
青は取り繕うようにちょっと愛想笑いを浮かべた。
「そうか……よかった」
レネゲイ氏が安堵の吐息を漏らすのを、青もまた、内心ホッとしながら見ていた。
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