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ルーァが、サキの死体を抱えて多良太の元に戻ってすぐ、異変は起こった。
最初、ルーァの赤い瞳に見据えられた者は、ただ内なる狂気に駆られて、闇雲に天上の都市を飛び回り、炎を撒き散らすだけだった。そしてそのついでに、ルーァの邪眼を映した眼で、直接ルーァと出会ったわけではない者達をも、狂気へと陥れた。
伝染する狂気は、風のように吹き抜け、水のように染み渡り、炎となって全てを焦がした。
そして天上の都市に、赤い狂気が蔓延すると、狂った天使達は、まるで誰かに命じられたかのように、一斉に、羽ばたきもせずに雲をつき抜け、地上へ落ちていった。
地天使と下天使の争いに燃える灰色の都市に降る、黒い雨となった。
夕暮れが、空を赤く染める頃だった。
天と地の都市は、天使の放つ赤い炎に巻かれ、白と黒の煙をあげて燃えた。それはまるで、赤い太陽の火が、燃え移ったかのようだった。
黒い天使は降り注ぎ、やがて宵闇が天上の都市を覆い、冴々と輝く白銀の三日月が空にかかり、遮るもののない宇宙が空一面に広がった頃には、天上の都市に溢れんばかりだった黒い天使達の殆どは、姿を消していた。
五分の一は、狂った仲間の炎と光に討たれ、五分の四は、空から降る、黒い雨になった。僅かに残った天使達も、この異変に恐れをなし、地上へと逃げていった。
だが、地上もまた、混乱の極みにあった。
一度は優勢となった地天使達も、空から降る黒い天使達を、下天使の加勢と思い込み、恐怖に崩れ落ちた。
空から降った下天使達は、自らの炎を抱えたまま、地上に落ちて無残に潰れた。
狩人の塔と呼ばれる高層ビルが、燃えていた。
黒い刃ような五十九階建ての高層ビルは、炎を吹きあげ、松明のように赤々と煙を吐いて燃え続け、その火は、夜が明けて、次の日になっても燃え続けた。
多くの天使たちが命を落とした。
地天使も下天使も、生き残った者の方がはるかに少なかった。
フィムは、狩人の塔が燃えるのを、通りを挟んだ反対側で見ていた。居住不可能な廃ビルの、捻れて曲がった鉄製の非常階段の一番下に立って、それを見ていた。
キリカにとどめを刺したあの部屋から、あちこちで火の手のあがる都市を見下ろしていたが、かろうじて動いていたエレベーターを使って、いつの間にか外に出てきていたのだ。
ビルの中は熱を帯び、吸い込んだ熱気で、身体の中から火傷しそうだった。だが、フィムが出ていく時には、一時の勢いはなくなっていた。
薄い空気で、息を詰まらせながら、フィムは出口を目指した。玄関ホールの屍の山は、炎に焼かれて、黒い炭の塊のようだ。
そして、フィムが出口のガラス扉を開けると同時に、
ドン、
と音がして、炎が外に噴きだした。
「!」
爆風と炎に背中を押されて、通りに身を投げだしたフィムの上に、割れたガラスが飛沫のように降り注ぐ。炎は、運よくフィムの身体には燃え移らなかった。ガラスの飛沫も、玄関のガラス扉は強化ガラスが使われていたせいか、粒状の欠片で、フィムを傷つけることはなかった。
倒れこんだショックで、一瞬、息が詰まったが、それも落ち着くと、フィムはうつ伏せのまま振り仰いだ。
狩人の塔が燃えていた。
あと少し遅かったなら、彼も炎に巻かれて命を落としていただろう。またしても、ギリギリのところで、フィムは助かったのだ。助かろうと、思っていたわけでもないのに。
その偶然に、ほんの一瞬、誰かの、なにかの意思を感じたが、フィムはすぐにその想いを振り払った。
(下らない。そんなの有り得ないよ)
フィムは両手をついて立ち上がった。
フラフラと歩いて通りの反対側まで行き、二階より上には行けない、壊れた非常階段の前で、再び狩人の塔を見上げた時、キリカの言葉が蘇った。
「あんたは、死なないでよ」
と言った時の目は、驚くほど真剣だった。その言葉に従うつもりもなかったけれど、死に場所を求めてウロつく気持ちもなくなっていたのは確かだ。
そしてフィムは今、死ぬのはもう少し、後回しにしようと思った。
そう決めると、スッと楽になった。
炎を吹きあげる狩人の塔と共に、フィムの心をかき乱す、ルーダもシェラも燃えて、とろけて、消し炭になった。二人が原因の自分の苦悩も一緒に、燃やし尽くして灰になればいい。
燃え落ちる狩人の塔を眺めていれば、それも可能な気がした。
と、フィムは、数メートルはなれたアスファルトの上に倒れた、翼ある天使の姿に気がついた。
空から降り注いだ天使たちとは違い、片翼が明らかに折れてはいるが、全体の原型は留めている。その体型と髪型に、見覚えがある気がした。
フィムは、歩いて近づいていき、あと数歩のところで、フィムは相手の正体に思い当たった。
それは、ルーダと親しく連絡を取り合っていた、下天使の一人、ティファイリエルだった。気を失ってはいるが、顔色を見るに、ティファイリエルはまだ生きているようだ。
フィムは立ち止まり、暫くの間、逡巡した。
(殺しちゃおうか)
ティファイリエルは、シェラとはレベルが違うが、それでも嫉妬の対象だった。だが、今更だと思い直した。
ルーダはもういない。狩人の塔と共に、ルーダへの想いも灰にしてしまおうと決めたのだから、今更嫉妬もなにもないだろう。それに、ここでとどめを刺してやるのは、寧ろ親切にすぎる気もする。
(片っぽはもう使い物にならなそう。折れた羽は仕舞うこともできないって、聞いたことがある。それなら、この先ずっとこのままの状態か、切り落とすしかないはず)
それは、翼を誇る天上の天使には耐え難い屈辱だろう。地上に下っても、尚、羽を仕舞わず背中に生やしていた今回の下天使達は、おそらく、事が済めば天上に戻るつもりだったのだろう。だが、羽がなければそれもできない。
(かなりショックだよね、それ)
なぜ、この戦いの中で死んでしまわなかったのだろうと思うかもしれない。
フィムは、ティファイリエルが、キリカが身代わりになって死ぬ前のフィムと同じように、死に場所を求めていたことは知らなかったが、それでも、気を失っている今、楽に殺してやるほど、ティファイリエルに好意を抱いてはいなかった。
苦悶の表情で目を閉じているティファイリエルをそのままに、フィムはまた燃える狩人の塔を見上げた。
熱気で、陽炎がたつほどに暑い。
地上生まれの白い肌を、炎が赤く照らしていた。
フィムが、狩人の塔が燃える寸前、最上階から、誰かを抱えた天使が一人、厚い雲に覆われた空へと昇っていくのを見た者がいるという噂を聞くのは、ずっと先のことだった。
そして、都市を焼く炎の熱は、打ち捨てられた冷えた卵を温め、死にゆく多くの天使達に代わって、新たな命を次々に生みだすことになる。
新たに孵った卵から生まれ落ちた天使達は、まばゆい金色の髪とタテガミを持ち、都市を焼く炎は、その卵も、天使達自身も、焦がすことはできなかった。
燃え落ちた都市の暗闇の中、金色の天使達の産声が響き渡る。
それは、新たな時代を告げる声だった。
<了>
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